2010年6月 のアーカイブ

1979年の鉄道。

2010年6月17日 木曜日

 今月(2010年8月号)の「列車追跡リバイバル」は1979年10月号掲載の四国全線の乗り歩きレポートです。先月も同時期の南九州のレポートを掲載しました。30年余り前のこの時代、国鉄の営業線上から蒸気機関車が姿を消して約3年、最後の蒸気機関車を追って熱狂した時期が過ぎ、一方で、国鉄の輸送概況も相次ぐ運賃値上げの影響で停滞していました。蒸気機関車と入れ替わるように山陽新幹線が博多に達したのが1975年で、約4年が経過していましたが、当時は新幹線といえば後に言う0系でした。東北新幹線の方は建設中で、東北本線には「はつかり」「ひばり」など特急電車が雁行するように運転されていましたが輸送力は不足気味で、1978年10月にスピードを若干犠牲にしても増発を可能にするダイヤ改正(53・10)が計画されました。このダイヤ改正は結果的には増発よりも減量化につながるものとなりましたが、同時に、それまで文字だけだった特急電車前面の愛称表示幕に、それぞれの愛称にちなんだイラストが入ることになり、それがヒットして特急電車を撮影しようとする少年たちがターミナル駅に集まったものでした。この企画は、そもそも運賃値上げによる停滞をカバーすべく、特急列車に耳目を集めることで利用の減少に歯止めをかけようという趣旨だったように記憶していますが、国鉄の旅客輸送量はその後も減少を続け、わずかに上向いたのは1983年でした。

1979年10月号表紙

1979年10月号の表紙

 当時の本誌の記事を振り返って興味深いことは、懐かしい車両の活躍ぶりもありますが、ローカル線でも荷物・貨物の扱いがあることで、四国の場合でも急行・普通列車に荷物車が連結され、主だった駅で、小荷物と呼んだ荷物の積み下ろし作業が見られることです。国鉄の荷物輸送は後に宅配便の登場で一気に衰退してしまい1984~86年に全廃されましたが、改めて思えば仕組みにしろ現場の実態にしろ旧態依然としたもので、蒸気機関車がなくなっても蒸気鉄道時代のシステムは変わりませんでした。
 ちなみに、この四国の記事が掲載された1979年10月号の表紙写真は「SLやまぐち号」(試運転)で、ちょうどこの年の8月から、山口線にC57が走り始めたのです。山口線が選ばれた背景には、新幹線で出かけてもらって増収に役立てようという考えがあったようです。
 また、当時の本誌は、国鉄車両の新製・廃車を月ごとに集計して掲載しており、機関車の新製欄には下関運転所に配置されたEF65 1122、1123、電車の新製欄には池袋電車区に配置された103系電車、気動車では宇都宮運転所配置のキハ40などが出ています。廃車の欄にはEF15、キハ17、モハ70などがあり、小樽築港機関区のDD51が亀山機関区へ転属したことなども記載されています。そういった時代であったことを考えあわせると、特急列車を中心とした輸送力増強やさまざまな企画を通じた増収に熱心な一方、古いシステムはそのまま手付かずで、国鉄という大きな組織が危機にあって思うにまかせない状況であったことがうかがえます。

 国鉄の旅客輸送量が回復するのは1980年代半ば、当時の景気の動向もありましたが、待ったなしの経営再建に向け、地方線区の特急列車や地方都市圏輸送において、短編成化により車両キロを抑えながら列車を大幅に増発したこと、国鉄のカラーを破る新しい車両の開発・投入、フルムーン夫婦パスの発売といった斬新かつ大型の商品企画などが奏功したように言われています。

佃駅のキユニ15

1979年当時の土讃線普通列車。

 この写真は1979年当時の土讃線普通列車で、先頭はキユニ15です。キハ17系の中間車キロハ18(→キハユ15)を多度津工場で郵便・荷物車(先頭車)に改造したもので、切妻スタイルで前灯は埋め込み式。踏切事故に備えたのか前面に取り付けられた補強梁のせいで一段といかめしい顔つきになっています。新幹線が博多に到達する時代になっても、荷物輸送はあたりまえに行われていました。撮影場所は佃駅です。

(鉄道ジャーナル2010年8月号 「編集後記」に加筆 )